リペア事始め

私:柴田のリペア/リメイク事始め〜

履歴書風に記載しますと、
あまり面白みのない文章になりますので、
文章の書き方は、専門的に、習っておりませんが、
誇大な誇張なく、頭の中で、過去と現在を往復しながら、
自分自身、出来る限りの文章力で、書き進めたいと思います。
なお、更新の際、加筆訂正しております。

それでは、始まります。

小学校時代は、公立の小学校でしたので、
6年生まで私服でした。
何の疑いもなく、両親が買ってくれた
服を着ていました。
特に、これと言ったエピソードもなく、
普通の小学生でした。

■中学生時代

中学も公立でしたが、中学生になると、
学校指定の詰襟の学生服と、中に着用する
白いカッターシャツは、
襟が"硬い!""硬い!"ものでした。

当時、父親はもちろんのこと、母親も働いてましたので、
まったく放任され、ほとんど母親らしいことを
やってくれなかった記憶があります。
襟のことを話しても、
「我慢しなさい」
の一言で終わってしまいました。

あまりにも、首廻りが固定されて、痛いので、
カッターシャツの台襟とのステッチと中縫いを
小バサミと目打ちでほどき、母親のミシンを借りて、
ほどいたところを縫って、
スタンドカラーシャツに、リメイク?しました。
人間追い込まれたら、未経験のミシンでも
踏めることがその時わかりました。

服装検査の時だけは、1着だけ、リメイク?
していないシャツを着ていき、それ以外の時は
上襟を取り外したカッターシャツを着用していました。

今思い返せば、リペアではありませんが、
よくやったものだと思います。
それ以外は、服に対して不満はありませんでしたが、
長袖のシャツを半袖にしたりと微々たる遊びをしておりました。

■高校生時代

高校は、国立高専と言って、5年間一貫教育の学校でした。
ここは、すべての環境が、大学並みで、入学式に、
特に指定はない学生服を着ていったくらいで、
その後、私服でずっと過ごしました。

就職は、5年後かと、卒業するまでにとても期間が
長いので、正直、ダレた学生生活でした。
1年生の時に知り合った友人に、「フィガロ」という
クラシックの音楽喫茶に連れて行ってもらいました。
「オレが、クラシック?」
と疑問を持ちながら、コーヒーを注文しました。

人との出会いは、不思議なものです。
その喫茶店のマスターと一緒に働くお姉さんが、
洋裁学校に通っていて、毎月、文化出版局が出している
「装苑/so-en」を買って、「フィガロ」に持ってきていました。

正直、興味はなかったのですが、その雑誌をめくっていくと
装苑賞という、公募のファッションコンテストの
候補作品が掲載されていて、驚くことに、候補者は、すべて、男性でした。
男のくせに、女の服をデザインして作るなんてと、思いながらも
軽く羨望したものでした。

その喫茶店が気に入ったんでしょうね。
その後、学校帰りに、ひとりで毎日寄って、
マスターやお姉さんと話すのがとても楽しかった。
ひとつ、大人の世界を見たというか、いろんなことを
教えてくれた記憶があります。

お姉さんに、装苑賞のことを聞くと、コシノジュンコ、
高田賢三、山本寛斎、山本耀司、三宅 一生などのことを
いろんなエピソードを交えて教えてくれました。

その時に、「Issey Miyake East Meets West」という
パルコ出版の本を見せてくれて、
「1枚の布」が、こうなるんだと当時の服とはまったく異なる
三宅一生の服に、かなり衝撃を受けました。
この辺からですね、服に興味を持ってのめり込んだのは、、、。

こうなると、性格上、とことん突き詰めていきたいほうですので、
図書館や町の本屋さんやお姉さんの持っている本を借りて
『服』のことを勉強?しました。
服は、大まかに分類すると、
デザイン→製造→販売
と言った流れです。

デザインも興味はありましたが、それより、
服の構造に非常に興味が湧いてきました。
1枚の布が、立体的な服になるのなら、
"その逆も真なり"と勝手に解釈して、

当時、福岡の西南学院大学の近くに、
米軍放出店があり、そこで、中古のMA-1と
リーバイスのジーンズを激安で購入して、
"分解"に仕掛かりました。

2012/10/20更新

まずは、ジーンズ。
リベットをDIY用のペンチで取り、
あとは、目打ちとリッパーと小バサミを使って、
ベルトループを取り、ステッチを取り、
地縫いをほどきました。

特に、裏側の状態が、「チェーン状」になっている所は、
1箇所ほどいて、糸を引くと一気に、ほどけてくるのが
そのときにわかりました。
また、箇所箇所で、糸の太さや色が違い、
ジーンズの"縫製"と言うのが、多少わかったつもりでいました。
最後に、ポケット袋布をほどき、家庭用アイロンで
ジーンズ全体の縫代にかけ、すべて平面にしました。

床の上に、ほどいてアイロンをかけたジーンズのパーツを
ジーンズの形になるように置き、写真を何枚か撮りました。

次に、MA-1。
左袖のペン入れをほどいて、
それから、前中心のファスナーをほどいて
後は一気に、リッパーで、糸に切れ目を入れ、
裏側から、下糸を引っ張って、ほどきました。

ジーンズに比べて、ステッチピッチが、
詰まっていなくて、簡単にほどけました。
アイテムは違いますが、ジーンズに比べて、
雑な縫製だなという記憶があります。

これも、家庭用アイロンで
全体の縫代にかけ、すべて平面し、床の上に置き、
写真を何枚か撮りました。

1枚の布から「立体の服」
「立体の服」から1枚の布

その頃は、洋裁の専門的な知識は、
当然ながらありませんが、
新鮮な驚きでした。

そうなると、1枚の布をどう裁断するのか
どういうミシンで縫うのかという
興味が非常に湧いてきて、
運がいいことに、私の母親の実家の隣に
斉藤君という中学時代の同級生がいて、
自宅で、ご両親が縫製工場を営んでいました。

斉藤君に、今までの経過を話し、
出来れば、工場内を見せてと頼んだところ、
「日曜日なら、いつでもいいよ」
をいうことで、その週末、分解したジーンズと
MA-1と共に、斉藤君の家へ行きました。

2012/10/28更新

「こんにちは」
と、斉藤君の玄関の扉を開けました。
「よく来たね。それより、君、変ってるね」
と、斉藤君のご両親。
「隣の安達さんとこのお孫さんがね〜」
安達とは、私の母の旧姓です。

「今、裁断しているから、ちょっと見てて」
と、斉藤君のおとうさん(以下:おとうさん)。

裁断台の上には、幾重にも重ねられた生地。
その上に、裁断用の紙がのせられていて、
その紙に線引きされた線の通りに、裁断機で、
切り始めました。

生地には、基本的に、92cm幅、112cm幅、
148cm幅の3種類があって、生地1本(1反)
約50m巻が基本。
それを、裁断台の長さでカットしていって、
両端の「耳:生地端」を揃えて、生地を重ね、

縫製を依頼された会社から支給されたパターン(型紙)を
裁断用に写しかえて、一番上に置き、線の通りに
裁断機で、裁断していく。
これが、裁断の基本ということ。

「あんまり専門的になると、わからないだろうから、
裁断に関することは、このくらい」
と、おとうさん。

斉藤君の所は、作業着がメインの縫製工場。
婦人服の柔らかい素材は、扱わないので、
ミシンも"ゴツイ?"ものばかり。
おとうさん曰く、
「たくさんミシンがあるが、簡単に」
と言うことで、

普通地縫いミシン、ステッチミシン、カンヌキミシン
2本針チェーンステッチミシン、穴ミシンなど、
の説明と使用方法の説明をしてもらいました。

その数多くのミシンは、整然と配置されていました。
当然ですが、母親の家庭用のミシンとはまったく違い、
ただただ、"すごい"のひとこと。

「ちょっと縫ってみる?」
ということで、普通ミシンを使ってみましたが、
あまりの縫う早さに、ビックリ!

私が、
「参りました」
というと、笑いながら、
「何で高校生なのに、分解したの?」
と、おとうさん。

1枚の布の件を簡単に話したら、
「まったくそんなことに、気がつかなかった」
と、おとうさん。

ジーンズとMA-1を裁断台の上に、置くと
興味深く見て、
「服を分解すると、こうなるんだ!
商売では、分解しないで、ミシンで組み立てること
が基本なので、逆転の発想も必要かも」

裁断とミシンの説明は、このくらいで、
あとは、お茶を飲みながら、
縫製含めたアパレル業界のことを簡単に説明してもらいました。

「今日は、ありがとうございました」
と、斉藤君とご両親に挨拶後、斉藤君の家を後にして、
すぐさま「フィガロ」に行き、マスターやお姉さんに
興奮しながら、今日の出来事を聞いてもらいました。

この時期から、将来のことを真剣に考えたのは、、、。
5年かけて卒業して、就職する道。
3年で、高校をやめて、「高校修業資格」を取って
新宿の文化服装学院へ行く道。
その他の道。

この時期は、高校2年生でしたので、
いろいろな道を模索していました。
ただし、何をやるにしても、情熱以上に、
「私の両親との相談」と「お金」
この2点が、難関でした。

高校は、当然、普通に授業を受けて、
中間テスト・期末テストがあり、
大学と同じで、「単位」制で、学年ごとの
単位を取得しないと留年してしまうと言う
結構厳しい状況の中、
まずは、5年間で卒業して就職すると言う道が、
バッサリとなくなりました。

2012/10/29更新

その後、両親との話し合いは、結構、もめにもめましたので、
ここでは、割愛しますが、

最終的には、高校を3年で、修業し、高校卒業の資格を取って、
大学を受験し、入学後、学校生活を送りながら、その4年間で、
文化服装学院の入学金と授業料などと、最低2年間の生活費を
アルバイトをして、貯めることになりました。
大学の入学金や授業料などは、高専の4年・5年の授業料などと
相殺の形になり、両親が出してくれることになりました。

この時点で、私は、高校3年生の1学期です。
進学校ではありませんでしたので、
とりあえず、合格までは、『服』を封印して、
高校受験の頃を思い出して、ひたすら、孤独な勉強の日々。

こんなバカげた?ことをやる人間は、同級生にはいなかったので、
表面上だけのつきあいで、大学受験することなど一切話しませんでした。
ただし、担任の先生には、ちゃんと報告しましたが、
校則で、後戻りは出来ないこと、つまり、大学受験に失敗して、
高校に戻りたいと行っても、4年生には
進級できないことだけは、はっきりと言い渡されました。

そして、文系に合格。
3年生の最後の授業の時、担任の先生に促されて
教壇に私ひとり立ち、同級生の前で、今までの経過を抜粋して話し、
ひとりだけの"卒業式/修業式"となりました。

一応、ひと段落ついたのですが、次は、貯金。
大学入学式までの間、
すぐに、本屋さんの返本処理のアルバイトを見つけ、
また、ジーンズが縫えるという厚物用の家庭用のミシンと
文化服装学院の教科書とシーチィング(生成色のさらし布)を
購入して、時間を見つけては、洋裁をひたすら独学です。

入学後、縁があって、デパートの紳士服(背広)の
販売のアルバイトに採用され、
平日は、学校がありますので、土日フルタイム勤務と
夏期・冬期・春期休みフルタイム勤務で、、
1年から3年の終わりまでに、
入学金と2年間の授業料が貯まりました。

また、3年間で、卒業に必要な必須単位2単位残して、
単位をほとんど取得し、4年次は、平日もフルタイムで、勤務し、
東京での最低2年間の生活費を確保することが出来ました。
その間も、洋裁を独学しながら、夜間に、デッサンの学校に通って、
デザインの初歩というものを学び、
文化服装学院の試験と面接を受け、合格し、
気持ちは、すでに、"東京"です。

ここまで経過するとあっという間の行間ですが、
過去を振り返ると、結構、濃密な学生生活を送っていました。
しかしながら、煩悩がじゃまをして、
品行方正な志の高い人間には、なりきれていませんでしたので、
バイクを通して、知り合った仲間が出来、スピード違反で
白バイに追いかけられたり、

好きな女性が出来たら、交際もしていました。
今だから言えますが、受験勉強中、たばこを覚え、
眠気覚ましに、吸っていたこともありました。
"二十歳の禁煙?"と言いますか、成人式を迎える頃には、
たばこを吸う習慣は、なくなりました。

2012/11/08更新

文化服装学院(以下:文化)合格後、一度上京して、
中央線の高円寺駅近くに、アパートを契約して、
東京での、生活の場所を確保しました。
なぜ、高円寺だったのかと言うことは、ずいぶん後の
私の修業時代に、簡単なエピソードが登場します。

後期試験が終わり、卒業認定の結果がわかり、
卒業式出席後、上京するまでは、引き続き、
デパートの紳士服(背広)の販売のアルバイトを
続けていました。
その間にも、上京するための荷物の整理と引っ越しの予約など
役所ごとも含めて、雑事がいろいろとありました。

記念となるかもしれないと思い、
私の誕生日3月30日に、博多から新幹線で上京しました。
博多から高円寺に着くまでの間、
みなさんは、ほとんど知らないと思いますが、
マイペースというフォークグループの「東京」と言う曲が
頭の中で、ずっと、リピートしていました。

今でも、YouTubeで、たまに、マイペースの「東京」と言う曲を
観聴きますが、いつも、当時のことを思い出します。

そして、文化の入学式。
日にちは、定かではありませんが、
4月の第一週、敷地内の遠藤記念館と言うところで
行われ、引き続いて、すでにクラス分けが行われた
円形校舎のひとつの教室に、集合ということになりました。

約40人クラス編成で、男子が、私含めて、6人。
あとは、全部、女子。
こういう経験はじめてですので、
女子が多いのは、わかってはいましたが、
不謹慎と思いましたが、思わず、苦笑してしまいました。

そして、このクラスを受け持つ、秋山先生との出会いが、
『服』を職業とすることに対して、心構え含めて、
ずいぶん影響を受けました。

2012/11/14更新

入学式/始業式後は、どの年代の学校と変らず、
学業に対する心構えや1年間の行事の予定など、
細かな説明があった後、その日は終了しました。

年間予定がアバウトわかり、教材や学校行事に
莫大なお金が必要なことが、想像していた通りわかり、
貯金した2年間分のお金では、
不足が生じる可能性があったため、

入学前に、お金の不足を見越して、前もって、
大学時代アルバイトしていました
デパートの紳士服(背広)フロア責任者に相談して
東京でも、同じようなアルバイトが出来るように、
紹介状を書いて頂き、

東京全デパートに売り場を持っている紳士服の
アパレルメーカーへ面接のアポイントを取って、
その週に履歴書持参で、面接に臨みました。

紹介状が幸いして、採用され、具体的な仕事は、
年間、土日だけのセール応援、
いわゆる、通常の売り場ではなく、特設会場で、
背広を売る仕事をすることになりました。

大学時代も文化時代も、このアルバイトが
大人社会との接点の始まりとなりました。
特に、年上の社会人とどう交わればいいかと言うことが、
おぼろげながら、わかったような気がしました。

今にして思えば、この6年間が、スーツやワイシャツ、
ネクタイを常備し、今までの人生の中で、
一番まともな?カッコをしていた時期でした。
社販で格安で購入できた、
春夏物スーツ3着、秋冬物スーツ3着、靴は、
ローファーとそれらを、1年間着回しながら、
6年間過ごしました。

学校の授業は、私が、大学入学前に購入していた
文化の教科書に沿って、行われました。
1冊ひと通り、独学はしていましたが、
やはり、"習う"と言うことは、非常に大切で、
教科書から発展して、そのことに関する奥深い
事柄が具体的な例を挙げて出てきて、
毎日が新鮮でした。

教室内を見渡せば、私の弟と同じ歳やちょっと上の
男子・女子のクラスでした。
語弊があるかもしれませんが、高校卒業して
スグに働くのを好まない人たちや、とりあえず、
手に職を持っていればという、安易な選択で、
文化に入学してきたようで、

どの分野の専門学校も同じなのかもしれませんが、
遅刻はするは、授業中行方不明なるは、
黙って早退はするは、、、。
目的意識なく入学するには、授業についていけないという
とても厳しい学校で、5月連休後、3名程、自主退学。
クラスの雰囲気は、かなり、ダレたものでした。

"朱に交われば赤くなる"という諺がありますが、
私と出発点がまったく異なりますので、
表面上は、同級生としてのつきあいがありますが、
安易な方に、引っ張られるのが怖くて、
深いつきあいは、好まなかった記憶があります。

2012/12/02更新

授業の進め方は、簡単に言えば、小学校時代と同じでした。
先生が、教科書通りに説明して、白色のブロード生地や
シーチィング(生成色のさらし布)で、
たとえば、先生が襟などを部分的に縫製するのを見て、
宿題として、その通りにやって、翌日提出するといった流れでした。

また、指ぬきと針と糸を使って、運針の練習や
まつりの練習、ボタンホールの練習、ボタン付けの練習、
スナップボタンやスプリングホックの付け方の練習等など、
様々な手作業での練習を繰り返して、それを先生の前で見せて、
合格・不合格を判定してもらうことでした。

その後、原型から作図し、スカートやブラウス、そして
学年末には、テーラードジャケット制作までといった1年間でした。
なぜ、婦人服なの?と問われると返答がむずかしいですが、
紳士服には、発展性やデザイン性などを求めることが
当時、むずかしかったことと、

女性には、バストがあり、平面から突き出た立体的な形を
「ダーツ」を使って、発展的に処理をして、
いろんなデザインが想像できたこと。
また、当時の装苑賞が、基本的には、婦人服と言うこと、
また、紳士服に比べて、婦人服の方が市場性があり、
パリコレで発表される90%以上が婦人服で、
紳士服は、申し訳ない程度にしか、
発表されていないということだと思います。

1年次の記憶で一番印象的だったのは、
担任の秋山先生に、
「男の子なのに、こんなにきれいに仕上げて、逆に気持ち悪い」
と言われたことでしょうか。
このひと言で、将来的にはこれ(技術)でどうにかなるなと思いました。

2年次は、9号もしくは11号サイズのボディ/スタンを使った
立体裁断と作図と服作りがメインでした。
2年次は、担任の先生も替わり、授業自体毎回新鮮さはありましたが、
淡々とした1年間でした。

1年次も2年次も大きなエピソードは、ほとんどありませんでした。
男子とは、たまに飲みに行ったり、校内では、他のクラスの
気が合う男子としゃべったりと普通の学校生活でした。

文化時代、強いて言えば、課外授業で、文化所有?の別荘みたいな所に
行ったり、2年次には、修学旅行で、京都・奈良へ行ったことでしょうか。
奈良では、宿泊した旅館の隣の家が、真夜中に火事になり、
消防車は来るは、パトカーは来るは、救急車は来るはで、
鎮火する朝まで、秋の奈良で、寒い中、外で待機したことでしょうか。
今思えば、なかなか経験することはありませんので、
印象的な思い出として、残っています。

東京でのひとり暮らしの生活が精一杯で、
授業以外に、文化に対しては、のめり込んでいませんでしたので、
熱く服のことを語り合ったり、将来は、、、。など、
ほとんどない、熱くて?醒めていた2年間でした。

2013/01/01更新

この辺で、
学生時代を総括して、「ジーンズとの出会い」について
簡単に記載していきます。
高校時代、田篭君という、同級生の男子が、
リーバイスのジーンズの古着を穿いて、学校に来たのが、
とても印象に残っています。

兄貴や姉貴がいれば、年上の情報が、瞬時に、下へ
伝わりますが、私は長男ゆえ、情報は、雑誌などに頼る
ことしかできず、田篭君が、話すリーバイスの話を
興味津々で聞いていた記憶があります。

その辺と「フィガロ」のお姉さんがリンクして、
同時期に、福岡の西南学院大学の近くの米軍放出店
へ行ったのだと思います。

残念ながら、
大学時代や文化時代は、スーツを着る機会が多く、
古着屋廻りは、あまり多くはありませんでした。
その頃は、DCブームの始まりで、ワイズやギャルソン、
イッセイミヤケなど、福岡では、天神コアの地下にあった
「ワンダーランド」や東京では、「マルイ」など、
時間があれば、廻っていたものでした。

唯一、身近では、
文化の2年次、柴山君という同級生の男子が
1年中、リーバイス501を穿いて、学校に来ていました。
彼が話す、リーバイスの歴史や縫製工程数など、
結構、専門的な話に、わからないながらも、うなずいていました。

以上のように、
ジーンズにのめり込むことが出来なかった環境が
今になっては、残念ですね。
古着屋さんを廻ることは、雑誌に書いてあることの
「社会科見学」です。
当時の多感な時期に、古着に触る機会が多ければ、
今のジーンズリペアの環境も、多少は、変化していたかもしれません。

そうこうしているうちに、いよいよ、
就職活動の時期に差し掛かりました。
私の就職の条件は、一生勤める気は、
まったくなく、一応、1年間と期間を区切っての勤務で、
会社というものの仕組みと人間関係、日々の仕事が一応わかれば、
いいというものでした。

特に、大手は、歯車のひとつになりますので、
小さい会社で、メンズとレディース両方製造している会社を
絞り込んでいきました。
DCブランド製造会社も考えましたが、
「内」にいるよりは、「外」から客観的に、見ていた方が、
ブランド価値がわかるような気がして、候補としては、
最初から、外しました。

そして、
東レの子会社で、おもしろい会社が見つかり、
会社研究を行った上で、アポイントを取り、
早速、デザイン画と学生時代に制作した服数点を
持って、面接に臨みました。

そして、その場で内定をもらいました。
「骨を埋める覚悟で、がんばってくれ」
と面接担当者に言われましたが、
「1年限り」
とは言えず、「はい」と大きな声で、
嘘をついてしまいました。

今や、
その子会社も今では、閉鎖してありません。
「骨を埋める覚悟で、がんばってくれ」
そのつもりで、入社した人たちは、
今では、どんな思いでいるのでしょう?

そして、入社式。

2013/02/15更新

4月2日、入社式。
単調な中で、時間が過ぎてゆく感じでした。
特に、気負いもなく、「よろしくお願いします」
の挨拶で終わりでした。
レディース部門の企画に配属され、上司のデザイナーや
パタンナー、生産管理などの方々に、個別に挨拶。
後は、何もすることはなく、午後5時30分で、終業。

この会社の唯一の長所は、午前9時30分に始まり、
午後5時30分で、終業するという、当時隆盛を極めた
他のDCブランド会社と比べて、
展示会前くらいしか残業がないこと。

当時、高円寺から五反田まで、バイクで通勤していましたので、
当時住んでいたアパートには、午後6時30分には、戻れるという
非常にうれしい環境でした。

帰ったら、銭湯に行き、夕食を食べ、古本屋を覗き、
将来役に立ちそうな本を買って、夜は、読書とデッサンに費やしました。
休みの日は、ひとりで、原宿・渋谷・青山など、デザイナーブランドのショップや
古着屋を廻ったり、または、近くの図書館で、
1日を過ごすという単調な日々を過ごしていました。

最初の3ヶ月は、一日ごとに営業5人に、それぞれ、一緒について行って
、卸し先のお店を廻ることでした。
また、縫製工場から仕上がった製品が届いたら、大きなラックを持って、
荷受け所まで行って、納品書と実枚数をチェックし、倉庫に収めることでした。
最初から、自分がデザインしたものが製品になるとは、
まったく思っていませんでしたので、
会社の流れを知るに置いては、貴重な経験でした。

2013/05/28更新

企画部の上司が、女性の方で、海外生活が長く、
個人主義に徹底されていた関係で、
比較的自由に、時間を使うことが出来ました。
約3ヶ月の研修期間後、女性ファッション雑誌を見て、
気に入った写真があれば、
切取って、A3サイズの画用紙に貼り、
一週間に一度提出するという作業を半年程行っていました。

と同時に、「市場調査」という名目で、
週に2回は、銀座や渋谷や新宿などへ行って
気になった服をデッサンして、提出するという作業も行っていました。
しかしながら、週2回中、1回は、
アメ横や原宿など、デニムの古着屋さんや
ミリタリーショップを廻って、
将来のために?、時間を有効?に、使っていました。

この約10ヶ月弱の期間が、
いまの仕事の初期形成に役に立ったのだろうと思っています。
週一で、平日顔を出すので、年齢が近いと言うこともあり、
古着屋さんのスタッフとも仲が良くなり、
デニムの歴史やリーバイスの細かいウンチクやアメリカでの
海外買い付けや品番別の商品価値など、

特に、ジーンズとファースト・セカンド・サードのGジャンに関しては,
事細かに教えてくれました。
給料が出たら、いくつかのお店で、
何かしらの商品を購入して、関係をずっと保っていました。

2013/06/02更新

そうして、時間が流れていくうち、年が明け、
1年間でやめるきっかけを模索していました。
願いは通じるもの?で、
年内に辞めた、職場の先輩が、大手商社へ転職して、
仕事が忙しくなってきたらしく、

「お前も辞めてくれば、、、」
という誘いに乗って、一身上の都合という真っ当な?理由で、
3月31日付けで、会社を辞め、
4月1日から、その商社で、働くようになりました。

その商社での仕事は、デザイナー/パタンナーと縫製工場との橋渡しの役、
つまり、生産管理の仕事がメインでした。
縫製仕様書とパターン(型紙)を見ながら、縫製工場の担当者と
縫製についての細かいところや間違いそうな箇所、そして、その製造している
服が、いつ上がるかの納期チェックを主にやっていました。

そのうちに、当時人件費が安かった韓国で、服を製造することになり、
パタンナーから預かったパターン(型紙)の日本語の箇所を英語に訳して、
パターン(型紙)に書き込み、韓国の縫製工場へ送るといったことまでを
仕事としていました。

出発点の「服の構造」に興味があったということで、
その当時は、とても有意義な時間を過ごしていました。
しかしながら、同じような仕事を続ける内に、デスクワークが
中心の仕事で、机には、当然、ミシンもなければ、アイロンもない
といった状況で、汗を流して仕事をするといった環境に飢えていました。

福岡の実家の自分の狭い部屋で、また、東京の高円寺のアパートで、
夏場の暑い中、エアコンがなく、扇風機を頼りに、
ミシンと、アイロンと、その他洋裁材料、洋裁道具を使って
汗を流しながら、服作りに取り組んでいた時期が、懐かしく思えてきました。

「オレには、デスクワークは合わないな」
商社で、仕事をしながら、"次"を模索していました。
原点に戻って、汗を流しながら、仕事をしたいと切望しだし、
でも、どうすればいいかということがまったく見えずに、
イライラの毎日が過ぎていってました。

2013/07/05更新

その時期に、展示会サンプルをお願いしていた会社の社長に
日頃の不平不満を漏らしていたところ、
「辞めて、ウチにくる?」
当時の私にとっては、ありがたい言葉をかけてくれました。

商社での、仕事の引き継ぎをし、約2ヶ月後、その会社の社長の
工房に、お世話になることになりました。
その会社は、展示会サンプル作成と婦人服のお直し(ウエスト詰め・丈詰めなど)
を行っていて、それ以外に、私が、商社で行っていた生産管理の仕事も
平行して行っていました。

私の仕事は、昼間は、生産管理の仕事で、夕方から、お直しの仕事
を掛け持ちで、朝8時から夜11時くらいまで、働いていました。
婦人服のお直しを手がけることは、初めてでしたが、いろんなブランドの
服の構造を知るきっかけとなり、今のジーンズリペアの元となったようです。

ありがたいことに、工房の中は、エアコンが効いていて、夏場でも
若干矛盾を含んでいますが、"汗を流さず"に働くことが出来ました。
ただし、その会社の社長とは、人間的に、相性が合わず、
→その社長は、平日の昼間、パチンコばっかりしていました。
技術を蓄積したら、そのうちに、"独立"をと思いながら、
日々を過ごしていました。

2013/08/11更新

この会社で、初めて、本格的な工業用ミシンを使うことになりました。
人間的には、相性は合わない社長でしたが、彼は、現在の仕事と平行して
工業用ミシンの販売と修理を行っていました。

社内にあるミシンは、年1回、総分解点検をしていました。
要は、ミシンを分解して、細かい糸くずなどの掃除や、摩耗する箇所に
ミシン用のグリース(固形油)を塗り、ねじのるみの点検や針と釜のタイミングを合わせたり、
クラッチモーターの点検やサーボモーターの点検など、多枝にわたっていました。

この作業も社内のスタッフ全員手伝いますので、ほとんどのスタッフが
「針と釜のタイミング合わせ」以外は、マスターすることになります。
私もこの作業が、現在の仕事に、とても役に立っています。

ここで、往年のロックバンド:甲斐バンドの甲斐さんのステージ衣装のリサイズ
を手伝うこととなります。
私が、東京に出てきて、高円寺に住むきっかけになったのが、甲斐バンドでした。
学生時代から大好きなバンドでした。当時は、テレビには、ほとんど露出しないので、
甲斐さんのラジオが、唯一の接点でした。

その甲斐バンドのデビュー前の東京での最初の生活拠点が、高円寺でした。
今でもあるマンションです。青梅街道沿いバス会社の大きな車庫の並びのビルです。
杉並区梅里1−19−11シャンポール南高円寺607号。
その後、彼らは、男臭い歌詞と時代に媚びないメロディーで、
一世を風靡し、時代の寵児となっていきました。

2013/09/12更新

そのリサイズの依頼は、スタイリスト関係の事務所からでした。
私は残念ながら、採寸に立ち会うことは出来ませんでしたが、
同じ会社のチーフの女性が、採寸し、「キクチタケオ」というブランドの
スーツを持ち帰っていました。

当時の甲斐さんは、体重が、40キロ台と、かなり痩せていて
ウエストサイズが、66cmあたりだったのを記憶しています。
スーツの上下をほとんどバラして、余分な箇所をカットし、

もう一度、スーツの形状になるように、スタッフ全員で取り組みました。
普通の婦人服のお直しと違い、直しの現場はすさまじいものでした。
そして、完成後、チーフの女性が、納品に行き、甲斐さんが試着し、
OKをもらったようでした。
最後に一言、
「ロックには、ロックのファッションがある」

チーフの女性は、"シビレた"と言っていました。
それをきっかけかどうか不明ですが、芸能関係の
服作りの仕事も入ってきていました。
知っている芸能人、まったく知らない芸能人、色々です。
私が、その会社を辞める直前には、ジャニーズの「少年隊」
の映画の衣装も作っていました。

私は、無関心でしたが、女性のスタッフ陣は、やはり興味があるんでしょうね。
普通のサンプル作りやお直しに比べて、生き生きと仕事をしていました。
有名人の魅力といいましょうか、その辺は、何年、何十年経っても
永遠に不滅ですね。

2013/10/20更新

「機は熟した」
勤め先の社長に、独立したい旨を話しましたが、
もめにもめて、とても面倒でしたので、
「4月30日で辞めます」
という置き手紙を残し、

世田谷区下馬という住所にある自分のマンションで、
5月1日付けで、創業しました。
当時すでに、工業用ミシン2台を取引のあった縫製工場さんから
無償で譲ってもらっていました。

創業時の仕事は、商社時代から取引のあったアパレルメーカー数社の
生産管理の仕事とアメリカへの古着の買い付けとアウトレットモールでの
ラルフローレンの服の買い付けでした。

月1回のロウズボールフリーマーケットに合わせて、毎月約1週間滞在して
古着とラルフローレンのアウトレットの服を買い付けていました。
買ってきた古着とB品のラルフローレンの服をリペアし、卸商の会社に
納品していました。

その時期は、バブルが崩壊寸前でしたが、リーバイス501XXのデッドストックが
日本では、100万円以上の値段を付けるほどの人気商品でした。
格安のモーテルを拠点として、レンタカーで、田舎町のドラッグストアを廻ることもありました。

そのうちに、アメリカでも、日本での販売価格を知ってか、異常に値段が高くなっていきました。
利益とコストを比較して、そろそろ潮時と感じた瞬間、買い付けは辞めて、
主な仕事は、生産管理の仕事とジーンズのリペアに絞って、
法人設立をしました。

なお、現在では、生産管理の仕事は、しておりません。
理由は、ユニクロなどのファストファッションの出現で、国内のアパレルメーカーも
コストを下げるため、韓国や中国などの海外生産を始めたこと。また、国内の縫製工場の
衰退で、国内で、服を作ることが、非常にむずかしくなったこと。

また、縫製工場の平均年齢が、高くなり、2代目、3代目の経営者が、
縫製工場の経営から手を引いたことが、挙げられます。

それ以外の仕事としては、ヤフーオークション(今では、ヤクオク!)を使って、
2000年以降、人気が出たドルチェ&ガバーナのデニム関係の製品の販売。
本物ルイヴィトンの製品をリメイクして、販売。赤耳デニム生地の販売など、
ジーンズやリペア・リメイクに関することと、関連づけて、仕事の方向性が、
大きくぶれないように、細心の注意を払い、仕事をしてきました。


そのあとは、リペアの最中に、
順次文章を加えていきます。

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